僕らの新しいローカリズム
僕らの新しいローカリズム|岡山・蒜山
岡山と鳥取の県境にある真庭市蒜山は、山麓に広がる高原地帯。
蒜山高原ではジャージー牛が放牧され、そのミルクでイタリアのチーズが作られる。
津黒高原には、かつて中和村と呼ばれた地域がある。人口600人弱。
観光地でもないこの里山に、しかし近年ではものづくりの移住者が相次いでいる。
農家、豆腐職人、鰻職人、料理家、醸造家、陶芸家、金工作家。
地元の人が「何もない」というこの土地が、彼らを惹きつける理由はなんだろう?
写真/伊藤徹也 文/井川直子
CHAPTER 11 『蒜山醸造所 つちとみず』
滝の近くで、木の下で、野生酵母を採取する
立派な瓦屋根の平屋に、「すぎちゃん」と書かれた表札。家主の杉保志さんが20年勤めた真庭市役所を辞める時、同僚たちが贈ってくれた「がんばれ」の証である。
今、集落の人々にも「すぎちゃん」と呼ばれている彼は、公務員からクラフトビールの醸造家になった人だ。
家の庭先にぽんと置かれたコンテナ一つ、それが2023年8月に始まったばかりのマイクロブルワリー『
蒜山醸造所 つちとみず
』。杉さんがひとりで、サワーエール(酸味のあるビール)の『S』、ヴィンテージエールの『V』シリーズを造っている。
取材の前に、『
蒜山 鰻専門店 翏(りょう)
』で、Sシリーズ4回目のロット『S4』を飲んだ。「ナチュラルワインのようなビール」と聞いたが、たしかに、さまざまな鉱物が溶け合う土のような感じや苦味が、翏さんの清い鰻とよく合った。
そう伝えると、『S4』は、そうなりましたね」と杉さんはおもしろそうに答える。
「同じように造っても、毎回少しずつ味わいが違うんです」
理由は彼が、野生酵母によって醸しているから。
ビールに必要な原料は、水、モルト、ホップ、酵母。この酵母のところで、一般的には液状または粉状の既製品が使われるところ、杉さんは自然界に棲息する酵母を採取しているのだ。
「麦汁の入った瓶を、いい酵母がいそうな場所に持って行って蓋を開け、空気中の酵母菌を取り込みます」
ある時は蒜山の荘厳な滝、またある時は庭先の梅の木の下、マイナスイオン漂う森の入口。
10分ほど経って蓋を締め、20度前後の室温におくと酵母が動き出し、3日目あたりからぶくぶく発酵し始める。最後に「いい匂い」がしたら、いい酵母が採れた合図だという。
しかし自然はけっこう冷たいもので、そんな簡単にぶくぶくしてくれないし、発酵しても悪い匂いなら使えない。
何度も失敗を重ね、やっと採取に成功したのは、四つの幸せと書いて四幸(しこう)と呼ばれる渓谷だった。
澄んだ川に架かる小さな橋のたもとで、早朝に採り入れた酵母は元気に発酵。甘くやさしい匂いを放ち、はじめてのサワーエールが誕生した。
なぜ彼は、そんな「賭け」のような野生酵母を選ぶのだろう。
「逆に既製のイースト(酵母)を使ったら、ものづくりのおもしろさの半分くらいはなくなっちゃう。野菜の栽培で言えば、買ってきた肥料をあげて育てるか、農薬や肥料を使わず自然に育てるか、くらい違います」
自然栽培という生き方
市役所時代の杉さんは、地域振興の仕事をしていた。
担当したある地域では、菜種油を特産にしようと菜の花を育て、刈り取って、搾るまで地元の人と一緒に苦労したり。そうしたなかで「ものづくり」に興味を持った。
お酒が好きだったから、「ビールも自分で造れるもんかな?」と勉強すると、醸造の世界にスポッとはまってしまった。
密かにブルワリー計画をスタートしたのが2014年。
だが融資も受けられず、宙ぶらりんだった頃に出会ったのが、『
蒜山耕藝
』として活動する高谷裕治さん、絵里香さん夫妻である。
農薬を使わず、肥料も与えない彼らの農を見て、杉さんはこれまでの価値観がひっくり返ってしまった。
「高谷さんたちはものごとを、善悪で判断しないんです。何が良くて何が悪い、と決めるのでなく、自然に働きかけて、その結果自然が返してくれるものを素直に受け入れる。それは農業の話にとどまらない、“自然栽培という生き方”ですよね」
自分もそんなふうに生きてみたい、と思った。
資金もないし技術もない。何一つ目処など立っていないけれど、「退路を断って、覚悟を決めてやらんといかんな」と、奮い立って市役所を辞めたのだった。
これは大変なことになるぞ、とは思わなかったのだろうか?
訊ねると、杉さんは「いえいえ、わくわくしかありませんでした」と、みんなに愛される笑顔を見せる。
とはいえ、安定した公務員生活を棒に振るなんてもったいない、と誰もが止めた。だけど「おめでとう」と応援してくれる人物が一人。ほかならぬ裕治さんで、彼もまた、公務員からの転職組である。
美しい風景、水のおいしい集落
まずは『蒜山耕藝』の畑で、野菜の種を蒔き、米の苗を植え、それらを収穫するまでの農作業全般を手伝う生活から始まった。
同時に、ブルワリー設立の事業計画も進めていく。
一定量のビール醸造を学ぶための研修先は、自然の酵母でパンとクラフトビールをつくる、鳥取の『
タルマーリー
』。杉さんとは以前から交流があり、住み込みで3カ月学ばせてくれた。
杉さんの家と醸造所があるのは、旧中和村にいくつか点在する集落の中でも“荒井”と呼ばれる、彼のとくに好きな集落だ。
山に囲まれていながら空が広くて、コンクリートで固められていない自然の川が、集落の中を蛇行しながら流れていく。
ビールの仕込み水は、この集落の地下に湧き出るやわらかな井戸水である。
「里山の風景がとても綺麗です。冬なんか、雪が降るとモノトーンの世界になって、積もるとすごく静かな音がする。静かな音って変ですけど、本当にそんな感じ」
温暖な岡山県だが、蒜山の冬は雪が積もって農作業はできない。植物が土の下で力を蓄えておくように、人間もまた「学びの時期」に入るのだという。
48歳からの「農」と「醸造」
2023年8月、『蒜山醸造所 つちとみず』は醸造を開始。杉さんは1974年12月生まれだから、48歳でのスタートだ。
たった1人で造るから、酒造免許は製造本数がビールの10分の1で済む「発泡酒」のカテゴリー。そうすると、モルトの使用比率を原料の半分未満に抑えるか、「ビール」で認められていない副原料を使わなければならない。
「モルトの量を減らすと糖分が少なくなって、目指す味が追求できなくなります」
そこで杉さんは、パンに使われる天然酵母のルヴァン種を加えている。
広島のブーランジェリー『
ドリアン
』の、小麦と塩と水だけでつくられるのルヴァン種。これならば乳酸菌が豊富で、乳酸発酵が可能。単に「発泡酒」枠にするためだけじゃない、サワーエールという目的を持って造ることができる。
『つちとみず』ではこのほか、木樽(アメリカ製オーク樽)発酵のヴィンテージエールも醸造する。取材時にはちょうど初めての『V1』を、ボトルに詰めて2カ月間瓶内二次発酵させている真っ最中(2024年6月にリリース)。
「桃の匂いがして、今のところ出来は上々だと思う。落ち着いた色で、オークのニュアンス、深みがあります」
コンテナの醸造所で木樽を見せてくれた後、杉さんは農具を持って畑へ向かった。
彼は醸造家だが、農夫でもある。向かった先は、少量だがビールに使うホップや小麦を自然栽培で育てる畑である。
2反の畑で小麦を、3反で古代小麦を。ホップはたった2畝(うね)だけれど、ティーメーカーという香り豊かな種類。
耕作放棄地だった畑は、方言で「黒ぼっこ」といわれる、火山灰質の黒土だ。
「蒜山は休火山ですが、大昔、噴火によって鳥取側に流れ込んでいた川が岡山側に方向を変えたと、集落のおじいちゃんから教えてもらいました」
この記憶を持った土に、どんな力が宿っているのか。
まだわからないけれど、鹿に荒らされたり、雑草と格闘しながら、この夏は2度目になるホップの収穫が待っている。
『つちとみず』。
醸造所につけた名は、杉さんがずっと守っていきたいものの表明だ。
農のある暮らしを基本に、時々、ビールを醸す生き方。仲間と1日をねぎらい合い、夕陽を眺めながら、造ったビールをともにおいしく飲む日々である。
- 蒜山醸造所 つちとみず
- 杉保志さんがひとりで醸す、野生酵母によるサワーエールとヴィンテージエールの醸造所。原料には、ドイツやオーストリアのオーガニックのほか、自然栽培による自家畑のホップなども使用。 オンライン販売もあり。
NEXT CHAPTER
「僕らの新しいローカリズム」岡山・蒜山編は、全6回でお届けいたします。
次回は、9月18日ー 毎月、満月の日に新たな記事を更新
岡山・蒜山高原にチーズ工房をかまえる『IL RICOTTARO イルリコッターロ』を訪ねます。
CHAPTER 12 coming soon