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recipe僕らの新しいローカリズム

自分たちが楽しければ、菌もいい

2025.10.06
自分たちが楽しければ、菌もいい

僕らの新しいローカリズム|石川 能登

半島という地形は魅力的だ。独立しているようでいて地は続き、
吹き抜ける風が、海の向こうから運んで きた種を落とす。
日本海に最も突き出した半島、能登。
北前船や京文化が種を落としたこの土地では、今また新しい人、戻る人、迎える人がひとつになって食文化の芽を育てている。
山から海へと巡る食、蔵と田が醸す酒、昇華された工芸品。
「能登の自然は時に厳しいけれど、それを癒やしてくれるのもまた自然」
傷ついた人々にさえそう感じさせてしまう、能登とはどんなところだろう?

写真/伊藤徹也 文/井川直子

 

CHAPTER 25『月とピエロ』

  • 月とピエロ
  • 月とピエロ
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  • 月とピエロ
  • 月とピエロ

焼き上がりのパンは、昨日の自分との再会

2015年6月3日、満月の日に始めた。
中能登町の『 月とピエロ 』では、夫の長屋圭尚(よしひさ)さんが天然酵母のパンを、妻の由香里さんがお菓子を焼くベーカリー。
圭尚さんは、能登半島がまだぐっすりと眠る3時に起きて、月明かりの下で仕事を始める。パン・ド・ミ、パン・コンプレなど次々と、全11種類。いわゆる低温長時間発酵で、朝に仕込む生地は翌朝に焼くためのものだ。
自家製酵母による、菌の自然な発酵活動を、朝までゆっくりと待つのである。しかも酵母はいくつもあって、たとえばパン・ド・ミならホップ酵母とレーズン酵母、パン・オ・フリュイならそれらに全粒粉の小麦粉から起こしたルヴァン種も加える。発酵の勢いや働きは、パンによってそれぞれだ。

だから発酵が終わった生地と、その焼き上がりのパンは、昨日の自分との再会というわけである。
昨日の彼は気分がよかったのだろうか。圭尚さんがのばして成形する生地は、ゆるゆるなのにちぎれそうでちぎれず、手に吸いつくような素直さで従っている。
明らかに、かなり水分の多い生地だ。かといって高加水にしようとしているのではなく、「その日の小麦が欲しがるだけ」の水を加える。
「香りって水分に入ると僕は思っているので、水分は多いほうが香りもいい気がするんです。発酵もスムーズになって、ガスが発生して閉じ込めてくれる。根拠はないけどそんなイメージです」
水は店から車で5分の山あいに湧く、十劫坊(じゅっこうぼう)の霊水。彼いわく「水は生きもの」。この水によって、目には見えない菌が、生き生きと動くのを感じるという。

パンを焼くのは、工房の一番奥で神棚のように存在する、フランス製の薪窯。
現地まで行って購入したから、その土地でどんなふうに使われているかがわかり、よりいっそう愛情が深まって使う度に気持ちがいい。
「自分たちが楽しければ、菌もいい」
そうしていい波動が巡り始める、と彼は語った。逆を言えば、自分たちの調子が悪いとパンにも表れてしまう、ということだ。夫妻は、だからひときわ誠実に、自分たちの体調と向き合っている。
成形してはじゃんじゃん焼き、10時の開店まであと30分ちょっと。
「おいしそうに焼けました!」
最後のパンを窯から取り出した圭尚さんの、うれしそうな声が響いた。

  • 月とピエロ
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帰り道はちょっと寂しそうなピエロ

圭尚さんは山側の中能登町、由香里さんは海側の七尾に育ち、同じ高校を同じ年に卒業した。二人とも故郷を出たくて、彼は金沢へ、彼女は神戸へ進学。
「僕は、やりたいことがわからんかった。それですごいもやもやしてました」
服や写真は好き。だけど「一部の人のすることかな」と蓋をして、圭尚さんは石川県庁の職員になった。
ベーカリーに勤めていたのは、由香里さんのほうだったのだ。
二人は毎月CDや本を交換していて、ある時、彼は由香里さんに自家培養酵母の本をプレゼントする。
「でも彼女がちょっと元気ない時やったんで、本が放置されていて。じゃあ僕、やってみようかなと」
初めて培養した酵母は、しかし冬の寒さでうんともすんとも言わない。ところが1カ月後、暖かくなるとむくむくと活動し始めたのである。
「生きてた!」
菌という生きものの世界に、すっかり夢中になってしまった。

彼は県庁から帰ると自家製酵母で生地を仕込み、朝焼いてから仕事に行く。そんな生活を続けること2年。友人から誘われて、イベントでパンを売る機会を得た。
自分たちだけのために焼いてきたパンが、見知らぬ人から「おいしい」と言われ、響くうれしさ。話すことが得意ではないという圭尚さんだが、パンならば言葉にせずとも「自分」が伝えられる。
「自分の中に滞っていたものが、巡り始めたんですね。僕はパンを作るのがやっぱり好きなんやって、すごく感じました」
だけど公務員である限り、パンを焼く自分は仮の姿で、月曜日になれば県庁に出勤する日常が待っている。この時からの屋号『月とピエロ』は、彼の心情だ。月明かりの時間にパンを焼き、みんなに喜んでもらえるけれど、帰り道はちょっと寂しそうなピエロ。

寂しさは募って、パン職人1本で生きたい気持ちは止められなくなっていく。二人はすでに結婚していたから、心配した両親は大反対。それでも圭尚さんは辞職届を提出した。
「その帰り道、『サヨナラCOLOR』を聴きながら見上げた空がすごい青かった。本当にフィルターが取れた感じで、空ってこんな青いんやと泣けてきた」
敬愛する忌野清志郎の歌声のように、気持ちがストレートに伝わるような、言葉を感じるようなパンを作りたい。
そうして岩永歩シェフの『ブーランジュリ ル・シュクレクール』で修業を始めた。まっしぐらな圭尚さんの一方で、初めての街に取り残された由香里さんには不安が積もり積もる。1年半後、彼女の心がパンクして、二人は療養のため故郷へ戻ったのだった。
本人はもちろん一番つらく、圭尚さんもまた「なぜもっと早く気づけなかったんだろう」と自分を責めた。どちらにとっても苦しい日々に、祈ったことはただ一つだ。
「二人が穏やかに、心地よくいられるあたりまえの暮らしです」
あたりまえが、あたりまえでないことを知っている二人である。


この土地を選んで生まれてきた

  • 月とピエロ
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  • 月とピエロ
  • 月とピエロ
  • 月とピエロ
  • 月とピエロ

日本の多くの若者がそうであるように、由香里さんもまたはかつては、何もない故郷を出たくて出た。だが再び能登へ戻った時、傷ついた彼女を癒やしてくれたのは見慣れた山や海だった。
「私はこの土地を選んで生まれてきたんだな、と思いました。自然は豊かだし、人はあったかい。私たち2人だけでは生きていけません。両親や義父母、周りの人たちのサポートがあるから、今の生活がある」
子どもの頃からお菓子作りが好きだった彼女は今、『月とピエロ』の焼き菓子を担当している。
「パン屋なので、ちょっと大きめの、食べると力が湧いてくるようなお菓子を作りたい」
季節の食材を使ったパウンドケーキ、クッキーやサブレ。自分のお菓子を模索するなか、2025年に完成したのが「能登のクッキー缶」である。白いクッキーは能登の粗塩、茶色いクッキーは七尾の『鳥居醤油』、2種類の詰め合わせ。
まさに、能登の風土に元気をもらうような焼き菓子だ。
醤油のほうはさらに発酵した味噌に近い風味とコク。後からほんのりとキャラメリゼ風の香ばしさが立ち上る、力強い味わいだ。
粗塩のクッキーは意外や意外、最初にやさしいバターの香りと甘みが広がったところへ、塩気がきゅっと利く。これがとても小気味いい。
前年の震災や豪雨被害からの復興を願ったクッキーだが、彼女自身にも菓子職人としての自信をもたらしてくれた一品に違いない。


新規就農した両親の、すごい野菜

季節のケーキでは、圭尚さんのご両親が育てるにんじんを使う「キャロットケーキ」も定番だ。
会社員だった父の弘智さんと、小学校教諭だった母の純子さんが、退職後の2018年に新規就農した『長屋農園』。
そのわずか1年後に、「オーガニック・エコフェスタ」(日本有機農業普及協会主催)のパプリカ部門で最優秀賞を受賞。以降、夏人参、葱、黒にんにく、中玉トマトと次々に優秀賞、最優秀賞を獲っているのだからすごい。
農業に携わるきっかけは、弘智さんが会社員時代に知った、有機栽培技術の一つであるBLOF(ブロフ)理論(Bio Logical Farming/生態系調和型農業理論)だった。
「有機栽培だからいいということではないんです。理論に基づいた土壌分析によって、適切なミネラルやアミノ酸などを補い、健全な土壌に育てていく。結果、化学肥料や除草剤などの必要がなくなります」
おいしさもさることながら、栄養価においてひときわ評価の高い『長屋農園』のテーマは、「食べたもので身体はつくられる」。
お二人の畑に立つと、足が沈むくらいふっかりとした土である。人参はもう終わりかけだけど、と言いながら土から抜くと、いかにもみっちりと重量感のある太さの人参が現れた。
「品種にもよりますが、目指しているのはこういう寸胴形の人参なんです。先に向かって細くなる人参に比べれば、体積も重量も3倍。このふかふかの土で、根がすうっと伸びると長さも長くなる」
長男がパン職人になると言った時には心配もしたけれど、今、ご両親の朝食はパンと決まっている。弘智さんの好物は「パン・ド・ミ」、純子さんは「バゲット・バタール」。焼きたてにバターをのせたり、にんにくオイルを垂らしたり、と聞いただけでごくんとなる。

焼きたてのパンをすぐ実家に持って行ける、圭尚さんと由香里さんの家は隣に建つ。
建築家・中村好文さんによる店舗と工房、住まいが一つになった家が完成したのは2021年のことだ。玄関前には、湧き水を汲みに行く十劫坊の枝垂れ桜が許可を得て移植され、店舗には小さなイート・インを設けた。
自宅のお風呂は薪炊きで、お湯が温まるまで1時間ほど火の番をする間は読書の時間だ。この家は、小さい頃から知っているはずの故郷を、違った景色に見せてくれた。
「遠回りでも、きっとこれが一番いい道だったと思えるように」
パンとお菓子を焼き、犬と散歩し、フィルムカメラでお互いの写真を撮る。このあたりまえの日常が、彼らの宝である。

  • 宮本水産
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  • 圭尚さんのご両親
  • 宮本水産
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月とピエロ
月とピエロ

中能登町に2015年6月3日オープン。二人の好きなアートが飾られた空間に、5席のイートインもあり。パンとお菓子は予約可能(予約日の前週、最終営業日・最終時間内まで。電話かメールでのみ受付)。発送もあり。毎月の発送日、臨時休業は Instagram 参照のこと。もちろん店頭には10時にすべてのパンとお菓子が並ぶ。

石川県鹿島郡中能登町羽坂2-92
TEL|0767-74-0662 MAIL|yoshiyoshi_karikari@yahoo.co.jp
※パンの予約は上記の電話またはメールでのみ受付
営業時間|金曜、土曜、日曜、祝日の月曜10:00〜14:00
定休日|月曜〜木曜、不定休あり

NEXT CHAPTER

「僕らの新しいローカリズム」石川県・能登編は全6回。
第5回は、『数馬酒造』
2024年の震災によって蔵の一部が使用不可になったなか、残った設備で、いち早く酒造りを再開した『数馬酒造』。若き蔵元と蔵人の前を向く力、米生産者との連携によるサステナブルな酒造りをお伝えします。
次回の公開は、2025年11月5日ビーバーズムーン。毎月、満月の日に新たな記事を更新します。

CHAPTER 26  comming soon『数馬酒造』

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