CHAPTER 33
『pesceco(ペシコ)』後編島原と生きていく
胃に穴が開くほどのプレッシャー
『pesceco(ペシコ)』
はランチのみ、全6席、コース1本。
井上稔浩(たかひろ)シェフが、この削ぎ落とされた営業形態に振り切ったのは、2020年のパンデミックが引き金だった。
外食や移動の“自粛”によって4月の予約が白紙になり、店は休業。
1カ月後に再開する際、それまでの「ランチとディナー、それぞれ2組、料理は2コース」を縮小したのだ。
ところが、意外にもこれがよかった。
「ゲストの満足度が上がったと感じたんです。数を絞ることで、より一人ひとりに集中できるからだと思いました」
より時間をかけて、より妥協のない選択をし、よりよい仕事をしていこう。
そうしてコロナ禍後も縮小体制を継続し、質を上げるほうへと振り切った。
質を上げ、価格を上げれば、料理人の能力は当然シビアに問われる。
価格に見合う価値はあるのか?
胃に穴が開くほどのプレッシャーだ。かといって売上は1日最大6名分で、それ以上は望めない。
このタイトな選択の真意は、どこにあるのだろう?
「自分たちはどう生きるのか、ということと向き合った結果です」
井上さんの実家は、かつてスーパーマーケットを営んでいた。
祖父が創業し、日用雑貨や食料品のほか、手づくりのお惣菜も扱う家族経営の店だ。安さでは圧倒的な大手に抗いながら、働きに働く、祖父母や両親の背中を見てきた。休まず働くことが家族のためになる、と誰もが信じていた時代だ。
「じゃあ、自分たちの時代は何を大切にして、どう生きるのか」
彼は、自営業の変遷のなかで育った人だった。
家族との時間は、仕事と同じくらい大切
今や3人の男の子の父である井上さんのSNSには、息子らの成長を慈しむような写真が載っている。
「家族との時間も、仕事も、同じくらい大切」
気づけば自身もまた家族経営で、妻であり息子たちの母、景子さんは『ペシコ』で働いている。両親が子どもたちと過ごせる時間を、井上さんは守った。
景子さんは、中学の同級生だ。
介護職に就いていたが、井上さんが23歳で開店した居酒屋を手伝うようになり「そのまま専属」。サービス経験のなかった彼女も、すでにキャリア16年である。
「景子さんは、自分の中に厳しさと正しさを持っている人」
迷いや悩みは、ぶれない彼女に打ち明ける。そうしてともに店を育ててきた、マダムもまた店主である。
レストランの隣地で、父の弘洋(こうよう)さんが営む『お魚いのうえ』は島原の地魚のみを扱う鮮魚店。
「稔浩は、よかもんから持っていくけん」
そう言っておおらかに笑う弘洋さんこそ、島原きっての目利きだ。
対馬に生まれ育ち、物心ついた頃から魚が大好き。
「長崎県は魚の種類が多いやろ?海に潜るといろんな魚がおったい」
スーパー時代から鮮魚を扱っていたが、50歳を過ぎてから念願の地魚専門店を開業。島原だけでなく、長崎市内の料理店にも信頼されているプロである。
土を裸にしないこと
一時期、自分で野菜を育てていた井上さんが、すっぱりやめることを決めたのは『草虫菜ひろせ』廣瀬都子さんの野菜と出合ったからだ。
「10年くらい前ですね。はっきり“違う!”と感じたんだけど、何が違うのかわからない。それで畑に通い始めたんです」
南島原の山の中腹にある畑で、廣瀬さんは土を耕やさず、肥料も水も撒かずに野菜を育てている。
人間の役割は、種蒔きと草刈り。
たとえば梅雨には雑草を刈り、乾季にはあえて草を生やしておく。刈った草は畑に戻すことで土の栄養となり、生えた草とともに保湿や保温にもなる。
取材の日は、それらの草が層を成し、地面が見えないほどだった。
「土を裸にしないこと。裸になると、土の中の微生物が生きていけないからね」
この草の層に朝露が降り、滴る水分を土が飲み、野菜が飲む。成長はスローなうえ、不思議なことに、同じ畑の同じ品種でも収穫時期はまちまちになるそうだ。
「それが植物に本来備わっている、自衛本能なの」
もし同じスピードで育ち、一斉に実をつけたとしたら、天候次第では全滅もあり得る。だが実を成す時期が少しずつずれれば、誰かが子孫を残せるというわけだ。
人間のように、個性と意思を持つ野菜
子孫を残す。
この営みこそ、廣瀬さんが大事にしていることである。
今、日本で流通する野菜の9割以上がF1種だ。形が均一で生育が良く、安定した収量が見込めるよう品種改良された種で、戦後の大量消費時代にぐんぐん普及した。
遺伝子のメカニズムを利用して“いいところ取り”する代わりに、F1種は一代限りである。
「子孫を残さない種です。その野菜を食べ続けたら、人類はどうなるのか?種を残すために、野菜は一生懸命花を咲かせて実を成らせるの。私はただ、あたりまえの野菜をあたりまえにつくる、ということをしたいんです」
廣瀬さんの父は、F1の種で一般的な農業を営んでいた。疑問を持ちながらも父を手伝い、やがて農家と結婚。
子どもたちが手を離れ、気づけば自分は49歳になっていた。
「その時、私は何のために生まれてきたんだろう?と思ったんです。若い頃からずっと心に抱いていた小さな光。
それを求めなかったら、自分の人生に意味がないんじゃないかなと」
廣瀬さんの野菜は、どれ一つとして同じものがない。マイペースだし、食べられたくない時は苦くなったり、虫を嫌って花を咲かせたりもする。
井上さんが日々向き合っているのは、個性と意思を持つ、まるで人間のような野菜なのだ。
「だから毎日、宿題をもらってる感覚です」
2026年2月の『ペシコ』では、廣瀬さんの黒田五寸人参、島人参、金時人参が、淡く美しい円のグラデーションとなって現れた。
山の下には海、地元で「がんば」と呼ばれるフグである。ぶ厚く切って湯引きしたがんばの身の弾力と甘み、人参が放つ湿った土の匂い、忍ばせた田ゼリの冴え冴えとした緑の香り。
これが島原の早春の味。山と海の、出会うべくして出会った季節の邂逅である。
カッコいい木を植えたくて
島原ではまた、「クツゾコ(舌平目)が卵を持ち始めたら春が近い」ともいわれる。
井上さんはこれを2枚におろし、ゼラチン質豊富な下の身は子(卵)を包んで蒸し、淡白な上の身は米の衣で揚げ焼きにした。
そこへ雪解け水ならぬ、湧き水といりこを一度凍らせてからゆっくりと戻したスープが流れ込む。
実山椒の柑橘香も清々しい、春の目覚めを体感するような一皿は「風物詩」と名づけられていた。
この料理に、明るい香ばしさとクロッカンテな食感を与えているのが米の衣、『鈴木ファーム』の棚田で育つ黒米と赤米である。
「上に民家のない一番水です。川からつながる水路は1キロメートル以上もあって、枯れ葉掃除などの管理が大変」
その手間を怠らず続けた先に、あの明るい米がもたらされていた。
鈴木和義さん、恵美さん夫妻は沖縄で園芸の仕事を通して知り合い、妻の故郷・島原で新規就農。自らを「百姓」と名乗り、米のほか野菜、ハーブ、果樹、養蜂までなんでも手がけている。
「気がつけば、僕の好きなカレーの材料だな……と」
畑の主力は玉ねぎ、にんにく、じゃがいも。ほかに唐辛子、ウコン、コリアンダーとくれば、たしかにカレー!
なんともおおらかな夫妻の人柄とは裏腹に、とくに玉ねぎの栽培は過酷だ。
「雑草を取る人の影も嫌う」といわれる野菜だから、南向きの360度開けた畑に植える。太陽がじんじん照りつけるうえ、南島原の日照時間は長い。山からびゅんびゅん吹き下ろす風に立っているのも困難ななか、二人は雑草を取りモグラの穴を塞ぎ、畑の面倒を見るのである。
鈴木さんの畑は点在していて、ここから車で10分ほど走るとオリーブ畑だ。
なぜオリーブ?と訊ねた時、和義さんはニコニコと答えた。
「カッコいい木を植えたくて」
4カ所の畑で、計300本。ミッション、ネバディロブランコ、マンザニーロ、ルッカの4品種に加え、新しくピクアル種も植えているところだ。
開墾当初は石だらけで、人力ではとても掘り起こせないほど硬かった土壌。無肥料では実をつけてくれず、伐採した枝を刻んで畑に戻したり、蟹殻などの有機肥料も試したり。
カッコいい木、それだけのために?
信じがたいほどの真っ直ぐさでトライ&エラーを繰り返す、その根本にある思いは何なのだろう。
島原を出てもいいし、選んでもいいよ
人間が生きていくためには、誰かが農業をする。だが農業とは、それ自体が地球に負担をかける行為でもある。
鈴木さん夫妻の農業は、その自戒ともいえる「自覚」から始まっていた。
「僕らのすることは、全部海に流れていくんです。有明海もまた赤潮や干潟の問題を抱えていますけど、だからこそ地球に迷惑をかけない農業をしたい。環境にやさしくすることは、きっと自分(人間)にもいいことになる。奪い合うんじゃなくて、与え合うみたいな意識ですよね」
和義さんの言葉に、恵美さんがこうつけ足した。
「そこに順番があるなら、まずは自分たちから与えていこうと」
井上さんが深く共鳴しているのは、そういう夫妻の考え方である。
島原の、島原たる自然を失うわけにはいかない理由が、彼にはあるのだ。
「自分たちには、島原から出るという選択がありません」
ガストロノミーなどなかった土地で、ガストロノミーを続けていくことがまずは第一。続けて、バトンを渡すのだ。
「子どもたちが成長した時、島原を出てもいいし島原を選んでもいいよ、と言える選択肢を残さなければ。それには人や環境が必須条件なんです」
自分のことを語る時も、井上さんは常に「自分たち」と三人称を使う。
師匠のいない彼は一人で精進してきたが、独りではなかった。
島原と生きていく。
その覚悟ができている以上、家族もつくり手も、地元の歴史や未来までもが味方である。